あれから20年

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(出展 http://sankei.jp.msn.com )

 

1月17日。
20年前、神戸を大きな地震が襲いました。
当時、私は16歳。高校2年になる前の、冬でした。

いつものとおり、寝ていたところに、
突然、洗濯機の中に居るかのような、大きな揺れ。
建物が、唸るように音を立てて、空間が回っていた。

揺れがおさまり、家族の無事がわかって、
廊下に座り込んだ私達。
度々つづく余震のなか、震えが止まらなかったことを、未だに憶えています。

やがて夜が明けて、空が白んでくると、
家の中が、えらいことになっていた。

家具のなか、収納のなか、すべてのものが
床に散乱していた。

窓をあけると、きな臭いニオイが流れこんできた。
周りの建物からは、火災ベルがけたたましく鳴り続けていた。
けれども、消防車のサイレンの音は、ちっとも聞こえなかった。

かろうじて使えた、ちいさいテレビデオをひっぱりだし、
ニュースをつけた。
今のように、携帯電話もスマホもインターネットも
家庭には無い時代。
唯一の情報源だった。

産まれ育った神戸の街、
高校生になって、友達とウキウキしながらウインドウショッピングをした三宮の繁華街、
通学していた阪急電車。
すべての姿が、変わりはてていた。

こんなん、学校にも通われへん、、、
それより、たしかあの子はあのあたりに住んでたけど、大丈夫なんやろか、
家は、なんとか建ってるけど、「避難所」に行ったほうがええのやろうか、、、

呆然とする気持ちのなか、
きっと一番近くの避難所は、通っていた小学校へ行ってみた。
6年間通った通学路沿いの建物が、
すべて1階が崩れて、2階の部屋が目線の高さにある。

ずっとそこにあった風景が、町並みが、
豹変していた。

小学校は、すでに家が壊れた人・焼け出された人、でいっぱいやった。
校舎の階段にも、人が並んで座り込んでいて、
私達家族が入れるようなスペースは、なかった。

リビングのこたつで家族4人寝起きする生活、
ねるときは枕元に、靴と最低限の荷物を詰めた鞄を置いていた。
そんな生活を数日つづけ、親戚の家に避難させてもらうことになった。
家に帰れるようになったのは、震災から数ヶ月経ってからだった。

その間に、行政による建物の被害状況の調査が入り、
我が家は「赤紙」(被害状況が酷いので、倒壊の恐れあり。建物からは退去し、この建物には近づかないこと、という目印)
が貼られていた。

その我が家を、壊すことなく修復してくれたのが、
親戚のおじさんだった。
そのおじさんは、母親のいとこにあたる方で、
東京で設計事務所をやっている、一級建築士だった。

建築というものが、
人の命を守り、生活も守るものなんだ。

こうして、私は、建築の仕事を目指しました。

あのとき、私の家をなおしてくれたおじさん、
遠いところから災害支援に来てくれた方々、
そして、その後、神戸の街の復興を支えてくれた方たち。

全ての方たちに、直接恩返しができなくても、
こうして、自分が関わる住宅、そこに住まうご家族に、
精一杯の誠実な気持ちで、家造りをさせてもらうことが、
私の職能としてのやるべきことなんだと、思っています。

 

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