会社概要・プロフィール

会 社 概 要

 

株式会社ひだまり設計工房   

 

設立:2015年10月(2008年設立 個人事業 ひだまり設計工房 より法人化)
住所:〒273-0853 千葉県船橋市金杉1-35-7-205
代表取締役: 山本 明香 (やまもと さやか)
電話:047-407-2920
FAX:047-407-2975
H P:http://hidamari-sekkei.com
mail:info@hidamari-sekkei.com

 

一級建築士事務所
千葉県知事登録 第1-1310-7115号

管理建築士
一級建築士 大臣登録 第330713号 山本明香

建設業許可
千葉県知事 般-27 第50478号

住宅瑕疵担保責任保険
住宅保証機構まもりすまい保険事業者登録 22011148号

その他加盟団体 等
千葉土建組合
一般社団法人 JBN全国工務店協会
ちば木造建築ネットワーク

 

事業内容

1. 建築工事の設計・施工・監理・管理
2. 建築工事業・大工工事業・内装仕上工事業
3. 建築に関するセミナー、講演会、講習会等の企画・立案・実施
4. 前各号に附帯関連する一切の事業

 

プロフィール

 

代表取締役 / 山本 明香 (やまもと さやか)

yamamoto-profile2016

1979年  兵庫県神戸市 生まれ
2002年  奈良女子大学 生活環境学部 住環境学専攻 卒業
-卒業論文『木質空間における生活環境に関する影響についての調査』-
2004年  奈良女大学大学院 住環境学コース 建築環境工学研究室 修了
-修士論文『木質空間の室内温熱環境の実態調査』-
2005年  大阪府立守口職業訓練校 木工科 修了
2006年~08年 船橋の地元工務店 勤務
2008年  一級建築士事務所・山本明香住宅設計室 開設
2014年  ひだまり設計工房 に改称
2015年  株式会社ひだまり設計工房 として法人化・代表取締役

 

 

 

免許・資格・所属など

一級建築士登録 大臣第330713号

応急危険度判断士講習 修了
玉掛け技能講習 修了
日建学院建築構造計算コース実務講座 修了
日建学院木造(2階建)構造計算コース講座 修了

 

ワタシが建築の仕事をすることになったキッカケと今

私が建築の仕事をするようになったきっかけは、高校生のときに経験した、阪神・淡路大震災です。
1995年1月17日の明け方。神戸を大きな地震が襲いました。
当時、私は16歳。高校2年になる前の、冬でした。

いつものとおり、寝ていたところに、突然、洗濯機の中に居るかのような、大きな揺れ。
建物が、唸るように音を立てて、空間が回っていた。

揺れがおさまり、家族の無事がわかって、廊下に座り込んだ私達。
度々つづく余震のなか、震えが止まらなかったことを、未だに憶えています。

やがて夜が明けて、空が白んでくると、家の中が、えらいことになっていた。

家具のなか、収納のなか、すべてのものが、床に散乱していた。
窓をあけると、きな臭いニオイが流れこんできた。
周りの建物からは、火災ベルがけたたましく鳴り続けていた。
けれども、消防車のサイレンの音は、ちっとも聞こえなかった。

かろうじて使えた、ちいさいテレビデオをひっぱりだし、ニュースをつけた。
今のように、携帯電話もスマホもインターネットも家庭には無い時代。
テレビが、唯一の情報源だった。

画面に映し出される映像は、産まれ育った神戸の街。
高校生になって、友達とウキウキしながらウインドウショッピングをした三宮の繁華街、
通学していた阪急電車。すべての姿が、変わりはてていた。

こんなん、学校にも通われへん、、、
それより、たしかあの子はあのあたりに住んでたけど、大丈夫なんやろか、
家は、なんとか建ってるけど、「避難所」に行ったほうがええのやろうか、、、

呆然とする気持ちのなか、一番近くの避難所は、通っていた小学校はず、と、行ってみた。
6年間通った通学路沿いの建物。いわゆる「木賃アパート」が並ぶ細い路地。
すべて1階が崩れて、2階の部屋が目線の高さにあった。

ずっとそこにあった風景が、町並みが、豹変していた。

小学校は、すでに家が壊れた人・焼け出された人、でいっぱいやった。
校舎の階段にも、人が並んで座り込んでいて、
私達家族が入れるようなスペースは、なかった。

リビングのこたつで家族4人寝起きする生活、
寝るときは枕元に、靴と最低限の荷物を詰めた鞄を置いていた。
そんな生活を数日つづけ、親戚の家に避難させてもらうことになった。
家に帰れるようになったのは、震災から数ヶ月経ってからだった。

その間に、行政による建物の被害状況の調査が入り、
我が家は「赤紙」(被害状況が酷いので、倒壊の恐れあり。建物からは退去し、この建物には近づかないこと、という目印)
が貼られていた。

その我が家を、壊すことなく修復してくれたのが、親戚のおじさんだった。
そのおじさんは、母親のいとこにあたる方で、東京で設計事務所をやっている、一級建築士だった。

建築というものが、
人の命を守り、生活も守るものなんだ。

こうして、私は、建築の仕事を目指しました。

そして千葉に来て小さな工務店に勤め、のちに独立。
継がなければいけない会社があるわけでもなく(普通のサラリーマン家庭で育ちました)、
もともと「起業したい!」なんて気持ちもサラサラなく。
そのときの建築士法は、一級建築士の免許を取得と同時に、事務所登録が出来るものでした。
事務所登録するために、事業主になった。ただそれだけでした。
そんな状況で独立したにもかかわらず、幸運なことに数年後には、
現場が何軒も重なり、その中で大きな集合住宅の設計依頼もあり、順調な毎日のように思っていました。
けれども、抱えきれるギリギリいっぱいまでの仕事量。目の前の仕事をこなしていくことに必死だったその時。
2011年3月11日。東日本大震災発生。
直接的な被災はなかったけれど、
建材の流通がストップ。ガソリンを入れるにも一苦労で現場にも行けない。
テレビからは、津波で押し流されていく家屋。
日が経つにつれ、私の住む周りは、徐々に震災前の状態に戻っていき、
そのとき進めていた現場のお施主さんたちとも、打合せをしたり、家造りを進めていきました。

けれども、そのときの私は、心が、正直、ついていきませんでした。
自然の力の前では、人がどんなにがんばっても、身を削るようにして働いても、呆気無く、こうして津波で流されたり、無くなってしまうこともあるんだ・・。
私は、何をやっているんだろう。何のために、建築の仕事をしているのだろう。意味があるのだろうか。
そのような私の気持ちを察してかしらずか、そのときのお施主さんが、打合せのあとに、ぽつりと言いました。
「こんなに悲しい大変な出来事が起こってしまったけれど、私たちは、あなたに家を建ててもらって、そこで過ごす日々を楽しみに待っています。」と。
心配してくれたOBさんご家族は、「いつでもゴハン食べにおいで。」「宝くじがあったたら、またもう一度、一緒に家造りをしたいよ!」と、言ってくれました。

設計者としてだけでなく、施工者としても仕事をするようになったのは、
すべてにおいて、自分の目の届く範囲で、自分の責任で、つくっていきたいから。
もちろん、実際に現場をつくりあげていくのは、大工さんであったり、電気屋さんであったり、それぞれの職人さん。
でも、職人さんたちが、現場を段取りしたり、時には現場の作業のサポートをしたり。
スムーズに気持よく本来の仕事を十二分に発揮してもらえるような環境をつくり、それを最終的に住まい手のもとにかえすことが、私の役目。
全ての人たちに、全ての世の中に、自分が何か出来るわけじゃない。
けれども、目の前に居る、私を信頼して、仕事を依頼してくれる人たち。
その人たちだけで、いい。
自分が精一杯の誠実な気持ちで、家造りをさせてもらうことが、私の職能としてのやるべきことなんだ、と。